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遺跡で語る古代の淀江

​(旧・米子市淀江歴史民俗資料館パンフレットより イラスト:早川和子氏)

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              【遺跡で語る古代の淀江】
◆旧石器時代
 日本列島に人類が住み始めたのは、約4万年前。それ以後、旧石器時代の遺跡は全国で1万ケ所以上みつかっています。鳥取県では、73ケ所で旧石器時代から縄文時代の初め頃の石器が出土しており、そのうち24ケ所が大山町にあるように、大山山麓に多くの遺跡があります。淀江町では、中西尾でヤリの先につける尖頭器(せんとうき)、小波の原畑遺跡でナイフ形石器がみつかっています。いずれも隠岐の島でとれる黒曜石で作られたものです。旧石器時代は氷期で、いちばん寒い2万年前頃には、海水面が下がって隠岐の島は陸続きになっていたと推定されています。
 隠岐は、石器の材料になる良質な黒曜石がとれるので、旧石器時代から使われ始め、縄文時代には中国地方一円で隠岐の黒曜石でつくった石器が出土します。黒曜石は、火山が噴火した時のマグマが冷えて固まる時にできる天然ガラスなので、割れ口がとても鋭い刃になるのです。それに、黒くて透明で美しいから、貴重品だったと思われます。
 おもしろいのは、原畑遺跡のナイフ形石器は、石材は地元の隠岐の黒曜石を使っているのに、その作り方は、東北地方の技法と共通しているのです。他にも山陰には、東北地方の技術で作れられた石器が見つかっており、日本海沿岸沿い、あるいは中国山地の尾根筋で、東北地方の集団がやってきていた可能性があります。さらに、隣の大山町の名和小谷遺跡で出土したナイフ形石器も、隠岐の黒曜石で作られたものですが、これは大阪湾沿岸から瀬戸内地方に特徴的な技法で作られており、瀬戸内側から隠岐の黒曜石をとりにきた集団が、当地で作った石器ではないかと推測されています。つまり、この地域が、東北・東日本からの東西ルート、中国山地を越えて瀬戸内と繋がる南北ルートの両方が重なるクロスロードであったのでした。
                  (参考:『新鳥取県史 考古1』、鳥取県埋蔵文化財センター『鳥取県の考古学 第1巻』)
◆縄文時代
縄文時代には、いま水田が広がったいる淀江平野に海が入り込み、「潟(かた、ラグーン)」という地形を作っていました。そこが天然の港となり、
縄文時代の遺跡は、圧倒的に東日本に多く、西日本では九州に集中して、本州西半と四国には非常に少ない「東高西低」です。山陰地方の縄文時代のムラは、竪穴建物が2,3軒という規模が一般的です。淀江町では、百塚第7遺跡で、縄文時代後期の竪穴建物が1軒と、狩りのための落とし穴227基がみつかりました。遺跡は、壺瓶山の南側の低い丘陵上に広がる百塚遺跡群の一角です。落とし穴は丘陵の全域に広がっており、竪穴建物は丘陵のふもとにポツンとありました。狩りをする縄文人の暮らしぶりがうかがえる遺跡です。
富繁渡り上り(とみしげわたりあがり)遺跡は、早期末から前期初頭(7000年前頃)の遺跡です。現在の水田面下1.5mのところで、縄文時代の遺物を含む層がみつかり、いちばん下の層では川の跡が確認されました。川跡から、多数の土器、石器、木製品が出土しました。石器は、石槍、削器、石皿、石錘、黒曜石の剥片(はくへん、石器を作るために割ったカケラのこと)などです。黒曜石の剥片はかなりの量で、ここで石器を作っていたと推測されます。また、石錘は200点以上も出土しており、個々で漁労活動が行われていたようです。木製品には、弓3点、ヤス、用途不明の大形木材がありました。湿地だったために保存状態が大変よくて、弓は全長90cm、ヤスは長さ4m近くもある大型品でした。
鮒ケ口(ふながくち)遺跡は、前期の遺跡です。この遺跡は、1979年に圃場整備の工事で掘りあげられた土のなかから大量の土器がみつかったことから、確認のための発掘調査がおこなわれましたが、正式な調査報告が出されていないため、詳細はよくわかっていません。工事中にみつかったものを含めて、出土遺物は豊富で、柱根、板材、黒曜石片、石錘、石匙、石鏃、石皿、木器などがあります。これらの遺物は、海辺または潟湖の岸辺に捨てられたような状態でみつかったことや、石器の大半が石錘という漁具であることから、この遺跡は漁労活動をおこなう場であったと考えられています。
なかでも注目されるのは、曽畑式土器や轟式土器という九州の縄文前期の土器が出土していることです。これらの土器は、九州からもちこまれたものとみられ、当時の活発な日本海交通の様子を知ることができます。
井手跨(いでまたぎ)遺跡は、淀江平野の低湿地にある縄文時代後期・晩期の遺跡です。旧淀江湾の海岸近くに位置し、海民的な活動をするのに適した立地でした。近くには、鮒ケ口遺跡、渡り上り遺跡、河原田遺跡など、淀江町内の主要な縄文遺跡がまとまっています。井手跨遺跡では、旧淀江湾に流れ込む大小の川の跡がみつかっており、そこから通常では残りにくい木製品がたくんさん出土しました。なかでも、注目されるのは赤い漆で塗られた櫛2点です。漆塗りの櫛は、東日本では多くみつかっていますが、西日本では珍しいものです。その他、漆塗りの木製の耳栓(じせん、イヤリング)、椀、丸木舟(現存長124cm)、櫂などが出土しています。
河原田A遺跡は、縄文後期・晩期と、弥生時代前期・中期の遺跡です。用水路の設置に伴う発掘調査だったので、10m×8mという狭い面積しか掘っていませんが、多量の土器と石器が出土しました。出土した縄文土器のなかには、大洞式土器という東北地方の土器や近畿地方の影響を受けた土器が含まれていました。
        
 
◆弥生時代
弥生時代になると、淀江潟には土砂が積もり、浅い湖くらいの規模になったことが地層の調査でわかっています。しかし、稲吉角田(いなよしすみた)遺跡出土した土器には、数人が漕ぐ船と、望楼のような高い建物などが描かれた弥生土器が出土しており、当時の港の風景を描いたものだと考えられています。
今津岸の上(いまづきしのうえ)遺跡は、海岸に面した台地の先端に営まれた弥生前期末の環濠集落です。集落の周囲に濠をめぐらす環濠集落は、稲作とともに朝鮮半島から伝わってきますが、前期にはまだ少なく、中期になってから本格的に展開します。集落内部の様子はよくわかりませんが、環濠の一部が発掘調査され、土器や玉作りの素材になる石材などが出土しました。
福岡遺跡は、弥生土器を作るための粘土の採掘場です。粘土を採るために掘った穴が前期2基・中期後葉55基・後期後葉3基、弥生時代(詳細な時期が不明)21、古墳時代13基がみつかりました。その他にも、時期がはっきりしない穴もたくさんありました。土器の他、穴を掘る道具とみられる棒が4点出土しました。穴の中から、アケビ属で作った、ザルのような網籠が出土して、粘土をとる際に使われたものと考えられています。
井手跨(いでまたぎ)遺跡は、国道9号線米子道路建設に伴い、発掘調査されました。隣接する福岡遺跡も同じ原因で調査がおこなわれたものです。井手跨遺跡は、旧淀江潟の水際に近いところであったと思われ、旧淀江潟に流れる川の跡や微高地に作られた多数の穴(土坑群)があります。土器は弥生前期末から後期末までありますが、多いのは中期後葉、後期中葉から後期末。木製品は農具と建築材。特徴的なものとして、不定形刃器と呼ばれた石器が50点ほど出土しており、石器に残った使用紺の分析から、イネ科植物の切断に使われたことが明らかになりました。つまり、米作りをしたムラだったのでしょう。ここでも、粘土の採掘坑がみつかっています。しかし、住まいの痕跡は未確認です。ここは水際なので、安定した生活をするために、近くの丘陵上で暮らしたのかもしれません。
日吉塚古墳(中西尾7号墳)は古墳時代の古墳なのですが、古墳の盛り土のなかから、絵画を描いた弥生土器がみつかりました。土器片は、復元すると直径44.6cmの大きな壺の口の部分で、同じく絵画をもつ稲吉角田遺跡の土器と同様、埋葬用の特別な壺だと考えられます。絵は、頭に大きな羽根飾りをつけ、右に戈(か)という武器をもち、左に盾をもつ人物で、この左側に盾のような表現があるので、もう一人描かれていた可能性があります。頭に大きな羽根飾りをつけた人物像は、妻木晩田遺跡の松尾頭地区で出土した土器にも描かれており、絵画土器を出土した3つの遺跡の関係性が気になります。
晩田(ばんだ)遺跡は、現在の県立白鳳高校の敷地内にある弥生中期後半(紀元前2世紀~紀元前後)の遺跡です。1968年に西部農業高校(現、白鳳高校)の建設に伴い、大量の遺物が出土しました。土器の他には、石鍬、石斧、石鏃などの石器と、玉造り関連の遺物がみつかりました。弥生時代の玉作りは、前期末頃に朝鮮半島から管玉作りが伝わり、急速に広まりますが、その中心は鳥取県と島根県東部で、鳥取県長瀬高浜遺跡と島根県松江市西川津遺跡が今のところ最古の玉作り遺跡です。晩田遺跡では、西川津遺跡と共通する作り方をしていたことがわかりました。また、玉の材料である水晶の原石も出土しました。水晶の玉作りも、鳥取県で早くから始まっています。このムラが消える頃に、背後の丘陵上に現れるのが妻木晩田(むきばんだ)遺跡です。妻木晩田(むきばんだ)遺跡については、「遺跡解説」をみてください。
 
◆古墳時代
 3世紀中頃から後半に、奈良県桜井市に箸墓(はしはか)古墳が出現しました。箸墓古墳は、全長約270mの巨大な前方後円墳であり、これ以後各地に前方後円墳が広まります。箸墓古墳の出現をもって古墳時代の始まり、ヤマト政権の成立とする考え方が一般的です。大規模な前方後円墳は、奈良県と大阪府に集中しています。古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などいろいろな形がありますが、なかでも前方後円墳は、ヤマト政権との繋がりを示す形の古墳として特別な意味をもつと考えられます。全国には約16万基の古墳・横穴墓があります。鳥取県には、1万3,486基があり(平成28年 文化庁埋蔵文化財関係統計資料より)、面積は小さいにも関わらず、都道府県別の数では全国で第2位の多さです。米子市には51基の前方後円墳があり、そのうち22基が淀江町に集中しています(『前方後円墳集成 中国・四国編』1991年)。
妻木晩田遺跡の洞ノ原地区西側を中心に築造された晩田山(ばんだやま)古墳群は、古墳時代前期から後期までの35基の古墳
があります。3号墳は、洞ノ原地区の先端に築かれた、古墳群中唯一の前方後円墳(全長36m)でした。平野を見下ろす絶景の位置に築かれて、まさに当地の有力者の墓にふさわしい堂々たる古墳でした。後円部には竪穴式石槨、前方部にはは来k式石棺2基がありました。竪穴式石槨のなかには木棺があったと推測され、内部に鉄剣と鉄刀が副葬されていました。築造された時期を決める出土品が乏しいのですが、前期後半か中期と推定されます。妻木晩田遺跡の発掘調査は、もともとゴルフ場建設にともなう記録保存のためだったので、残念ながら3号墳も調査終了後に破壊されました。その後、妻木晩田遺跡の全面保存が決定し、ゴルフ場建設計画は中止になりました。いまから思えば、残念なことです。しかし、前方後円墳の盛り土を撤去したおかげで弥生時代の環壕、総柱建物跡やノロシを焚いた跡、石ツブテの集積などがみつかって、弥生時代の洞ノ原地区が特別な場所だったことがわかりました。
洞ノ原の弥生時代の墳丘墓の南側にある17号墳は直径41mの大きな円墳で、前期(4世紀)に築かれた古い古墳です。埋葬施設は箱式石棺で、石の内面は赤く塗られていました。石棺の内部から鉄刀1、鉄剣1、鉄槍1、鉄矛1、鉄斧1が出土しました。
洞ノ原の弥生時代の墳丘墓群のすぐ下に、円墳があります。晩田山古墳群は、6世紀前葉・中葉の古墳が未確認です。その空白期間の後、6世紀後葉に築かれた、28号墳(直径約20m))、29号墳(直径約20m)、29号墳(直径約20m)の3つの古墳は、土嚢を積んで墳丘を造ったことが確認されました。土嚢積みは、朝鮮半島南部の伽耶地方の影響を受けて、5世紀に日本列島に登場した工法です。いまのところ列島最古の例は、大阪府の津堂城山古墳(全長210m、4世紀後半)の外堤で、この古墳が大阪府に巨大な前方後円墳が出現するきっかけとなりました。土嚢積みの技法は、各地の有力な古墳に採用されるようになります。しかし、広く普及することはなかったので、ヤマト政権と繋がりの深い各地の特定の有力者が、個人的に採用したのではないかという見方があります。とはいえ、同じ頃、晩田山の麓には、向山古墳群という、この時期県内最大級の古墳群があり、地域独特の石室文化を展開しています。晩田山の上と下で、ずいぶん様相の異なる古墳があるのは、興味深いことですね。
1号墳2号墳は洞ノ原の西の山裾にあり、墳丘は失われていますが、切り石造りの横穴式石室が開口しています。石室の壁や天井は1枚の巨石で築かれる、この地域に特徴的な石室です。31号墳は、洞ノ原の南の山裾にあり、この古墳を残すために、道路を湾曲させて建設したというエピソードがあります。31号墳は1辺22mの方墳で、石垣のように列石がめぐっています。横穴式石室は一部しか残っていませんが、入り口の扉石に舟のような形の浮彫があったことで注目されました。金環や鉄鏃、須恵器などが出土し、6世紀後葉から7世紀中頃まで、少なくとも2度の埋葬があったと考えられています。
上ノ山(かみのやま)古墳は、小枝山丘陵の北東、彩色壁画で知られる上淀廃寺と福岡川をはさんで向き合う位置にあります。中期前葉(5世紀前葉)に造られた直径30mの円墳で、竪穴式石槨が2基、T字形に配置されていました。長い方の第1石槨かrらは甲冑、鉄鏃、刀子など、第2石槨からは内行花文鏡、鉄刀、玉類(碧玉製勾玉、メノウ製勾玉、碧玉製管玉、滑石性勾玉300、滑石製管玉200以上)がみつかりました。甲冑をはじめ、これらの副葬品は、ヤマト地方との影響が色濃くみうけられ、淀江の有力者がヤマト勢力と繋がりをもったことを示す古墳といえます。この後、淀江に多くの前方後円墳が築かれるようになりました。
井手挟(いでばさみ)遺跡は、淀江町中西尾にあります。古墳時代前期の竪穴建物9軒と掘立柱建物1軒、そして、古墳5基(円墳4基、方墳1基)がありました。古墳は丘陵上に築かれており、本来は中西尾古墳群と一体のものだったと考えられます。古墳の墳丘や埋葬施設はすでに消失して、現在は水田になっていますが、水田の下で古墳をめぐる周濠だけが確認されました。方墳(5号墳)は前期後半、円墳(1~4号墳)は中期後半のもので、3号墳では、顔に入れ墨をした盾持人埴輪3体および鹿・水鳥・鶏の埴輪が出土しました。盾持人は、墓守りです。ここの楯持人埴輪は、なんともいえない表情をしており、この年の年末の「アサヒグラフ」の表紙を飾りました。鹿や水鳥の埴輪も、独特の表情が印象的です。
中西尾古墳群は、淀江平野をのぞむ丘陵上に築かれた12基の古墳からなります。このうち6号墳は円墳(直径17m)で、横穴式石室の壁が赤彩されています。明治時代に、この石室から画文帯神獣鏡、勾玉(ヒスイ製2、メノウ製1)、切子玉5、ガラス小玉50、刀剣5、金環(耳飾り)20対、鉄斧、子持ち高坏などが出土しています。刀剣には、金銅製の拵(こしらえ)付きの装飾刀、鹿角柄刀子があったようです。
壺瓶山(つぼかめやま)古墳群は、壺瓶山に築かれた40基以上の古墳の総称です。6世紀後半から7世紀初頭に築かれたものが主体で、33号墳は前方後円墳(全長45m)です。29号墳(大転場古墳)は6世紀後半から7世紀初頭に築かれた円墳(直径16m)で、『因伯二國に於ける古墳の調査』(1924年)によると箱式石棺のなかから頭推(かぶつち)大刀が出土したそうですが、現在は所在不明です。6世紀になると、大刀の柄を飾る「装飾大刀」が大流行します。そのなかには、環頭大刀のように朝鮮半島から伝来したタイプが多いのですが、頭椎大刀は日本列島独特のものです。いずれにしても装飾大刀は、ヤマト王権との関係の証として、限られた有力者だけが所有することができた貴重品です。
中間古墳群は、昭和初期まで約70基の古墳があったそうです。大半は直径20m以下の円墳で、前方後円墳が2基ありました。しかし、開発で次々に壊されてしまいました。
四十九谷(しじゅくだに)横穴墓群は、淀江町稲吉の東の谷を登った山腹の尾根に近いあたり、日本海を望む眺望のよいところにあります。横穴墓は、崖に横穴式石室のような空間を掘りこんで埋葬する墓で、5世紀に北部九州で出現し、6世紀後半からは全国的に大流行しました。四十九谷横穴墓群については、明治時代に地元の考古学者であった足立正が報告し、その存在が知られていましてあ。現在は、60mほどの範囲に12基が確認されています。ここでは、吉備地方に多い陶棺(土製の棺)の破片がみつかっており、県内では珍しい資料として注目されます。
  参考文献:『新鳥取県史 考古1 旧石器・縄文・弥生時代』2017年
       『新鳥取県史 考古Ⅰ 古墳時代』2020年 
       『淀江町誌』1985年
遺跡地図
遺跡解説
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