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「古代淀江ロマン遺跡回廊」推進会議
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March 2023
百塚遺跡群・百塚古墳群と
百塚88号墳
【百塚遺跡群・百塚古墳群】 淀江平野の西側を区切るように、南北に伸びるなだらかな小波丘陵は、古代の人々の生活の場に適していたようで、弥生時代中期後半(紀元前2世紀)から7世紀まで長期にわたって人々が暮らした跡、百塚遺跡群があります。これまでの発掘調査で、竪穴建物跡332軒、掘立柱建物跡147軒がみつかっています(2004年報告)。淀江平野の周辺で、これだけ継続して人々が暮らした場所は、他にはみつかっていません。
「百塚」の名前が示すように、この丘陵上にはおびただしい古墳が築かれました。 集落と古墳群が隣接し、古墳を造った人々が暮らした集落がわかるという事例は貴重です。百塚古墳群は、5世紀から7世紀初頭にかけての122基からなる大型の古墳群です。古墳の多くはすでに畑の開墾や圃場整備などで墳丘が失われていますが、発掘調査によって墳丘をとりまく周溝が確認され、そこから馬具や武具の破片が出土しています。古墳のほとんどは円墳ですが、前方後円墳が2基ありました。94号墳(全長36m)と88号墳(全長26m)です。94号墳は残念ながらすでに消失しており、88号墳が現存する唯一の前方後円墳です。

【百塚88号墳】 6世紀後半に築造された全長26mの前方後円墳です。2020年におこなわれた発掘調査で、くびれ部に横穴式石室(第1埋葬施設)、後円部に大型箱式石棺(第2埋葬施設)がみつかりました。また、墳丘を土嚢積みで築いていることもわかりました。墳丘を土嚢積みで築いた例は、淀江平野の東側丘陵にある妻木晩田遺跡でも3基の古墳で確認されており、技術的な関係性が注目されます。




(写真・図は現地説明会資料より)
◆土嚢積み工法
土嚢を積んて古墳の墳丘を造る工法は、元をたどれば朝鮮半島南部、伽耶地方に広くみられる技術です。わが国では、4世紀後半に大阪府の津堂城山古墳(全長208m)の外堤で用いられたのが、いまのところ最古の事例です。津堂城山古墳は、大阪府で巨大な前方後円墳が造られ始める契機となった、重要な古墳です。朝鮮半島の工法をいち早く取り入れたようです。5世紀になると、土嚢積み工法は各地の有力者の墓とみられる前方後円墳にもみられますが、点的にしか存在しないので、個人的にヤマト政権との繋がりが濃い地方の有力者が、畿内の工法をとりいれたのではないかとみられています。6世紀になると、さらに分布が広がり、北は東北地方で最大の前方後円墳である福島県塚前古墳から九州まで確認されています。継体大王の墓とみられる大阪府今城塚古墳や、島根県最大の前方後方墳である山代二子塚など、大王や地域最大規模の古墳で採用されています。その一方で、円墳でも確認されるようになります。その場合も、古墳群のなかで大型の円墳にみられます。多くの場合、土嚢積み工法を用いる古墳は単独なのですが、妻木晩田遺跡にある晩田山古墳群では、28号墳、29号墳、30号墳の3基に土嚢積み工法が用いられていました。これらは、群内では比較的大型の円墳であり、有力者が採用する工法であることは共通します。しかし、1つの古墳群に複数存在した例は、従来にないあり方です。
土嚢積みに詳しい青木敬氏は、「有力者の古墳だけに土嚢・土塊積み技術を採用したことは、大王墓暮らすの古墳に採用された土木技術を共有できるほど王権との密接な関係を築いた人物が被葬者であることの裏返しともいえる」とし、6世紀の土嚢積みの変化を「特定の有力者に地域の支配権をみとめた国造制の成立とかかわりがあるのではなかろうか」と考え、晩田山古墳群の3つの土嚢積み古墳についても、中央との繋がりの強い有力者が三代続き、政治的に安定していた状況であったと推察されています(『土木技術の古代史』2017年)。
これらのことから、土嚢積み工法が採用されていた百塚88号墳の被葬者は、前方後円墳であることに加えて、土嚢積み工法を採用していることからも、ヤマト政権との繋がりの強い人物であったといえそうです。

