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​条里制

 701年に発布された「大宝律令」によって、日本という国家の枠組みが定まりました。その基本は、公地公民です。土地はすべて国家のもの。では、農民はどうすればいいのかというと、国から水田を借りて稲作をおこない、その収穫から、水田の借り賃として「租」という税を納める。これが「班田収授法」という制度です。

 水田を貸すためには、田んぼの大きさを一定にしなくてはなりません。そこで、全国の田んぼを一定の区画に造り直すという大変な事業が行われました。条里制とは、班田収授法のためにおこなわれた土地の区画制度です。一般的に、南北の「条」や東西の「里」(1辺がいずれも6町=約654メートル)に土地を大区分し、数詞をつけます。さらに、この大きな方格地割(碁盤の目のような地割)の内部を36個の方格地割(坪、1辺が1町・約109メートル)に中区分し、千鳥・並行いずれかの方式で各坪にも数詞をつけます。中方格地割は、さらにその内部を半折(はおり)・長地(ながち)などの方式で10等分した。その1つが畔で、奈良時代は1段(のちの1段2畝)に相当し、条里制地割の最小基本単位とされました。こうして、土地は台帳の上で何条・何里・何坪と明確に示されることになりました。班田収授法では、6歳以上の男子1人に口分田2段が給付されましたが、これは最小単位である畔(1段)の2区分に相当します。

 条里制の起源については諸説がありますが、因幡・伯耆では、大宝律令の制定(701)以前に、すでに条里制の施行が終わっていたのではないかという見方があります。その理由は、672~685年間に建立されたと推定される大寺廃寺(伯耆町)の遺構が、条里遺構とほぼ同じ方位をとり、しかも坪地割の中に寺域が画定されていること、などの点です(『鳥取県史』)。 

 この条里制の跡が、淀江平野にもよく残っています。昭和50年から55年にかけておこなわれた宇田川地区土地改良工事にともない、条里制の調査がおこなわれました。現在の地割が古代の条里制そのままとはいえませんが、方形地割がよく残っており、その区画は地理的・地形的にみて条里型の要件に合っていること、またその坪がほぼ方109m前後であること、「市(一)の坪」などの字名があること、坪の区画とみられる木杭が地中に残っている所がある、などのことから、古代の条里制の姿をかなり良好に残している地域であるのは間違いありません。

 さらに、淀江平野には、古代の山陰道が通っています。古代山陰道は、大山町長田から妻木晩田遺跡のなかを通って北尾に出て、向山古墳群の南側の「市の坪」で西にまがり、淀江平野のほぼ中央をから直角に南下して、中西尾から西へ百塚原にむかう、というルートが推定されています(『新淀江町誌』)。

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