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「古代淀江ロマン遺跡回廊」推進会議
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上淀廃寺
上淀廃寺
上淀廃寺は、7世紀後半に建立された寺の跡です。その寺が何という名前か、記録がなくてわからないので、「上淀」地区になった「廃絶した寺の跡」という意味で、上淀廃寺と呼んでいます。7世紀の後半は、全国的に寺院が建ちはじめる時期です。鳥取県でもっとも古い寺院は、7世紀中頃に建てられた国史跡・大御堂廃寺(倉吉市)で、7世紀後半には伯耆国だけでも大原廃寺(倉吉市)、斎尾廃寺(琴浦町)、高田原遺跡(大山町)、上淀廃寺(淀江町)、大寺廃寺(伯耆町)があります。
農作業などで瓦がみつかっており、ここに寺があっただろうということは、大正時代から知られていました(『宇田川村史』)。それも、変わった文様の瓦として注目されていました。
隣接する国史跡・向山古墳群とともに「伯耆古代の丘」として保存・整備するために、1991(平成3)年から発掘調査がおこなわれました。そして同年4月、金堂の周辺で大量の彩色壁画片がみつかり、法隆寺と並んで日本最古の壁画寺院として全国的に注目を集めました。
さらに調査が進むと、金堂の東側に塔が3つ並ぶ、他に例のない伽藍配置をもつ寺院であることが明らかになりました。
金堂や塔の規模は、いわゆる地方寺院に一般的なものです。そこから出土した仏像は数多く、新旧2種類がありました。新しい方は8世紀中頃の大改修時のもので、丈六如来坐像(約2.4m)の本尊と一丈(約3m)の両脇侍菩薩立像という大きな三尊像です。
★参考:上淀廃寺(米子市の史跡・指定文化財)
彩色壁画片は1305点みつかりました。描かれていたのは、如来の脇侍である「菩薩像」、仏を守護する「神将」、仏具の「天蓋」、背景となる「遠山と霞」など。寺院に壁画を描く例として、この時期に国内では法隆寺がありますが、百済では、百済最後の都である扶余にある扶蘇山廃寺(西腹寺)や武王が建立したことで名高い弥勒寺があります。寺院の建物の壁に壁画を描く技術は、それまでの日本列島には存在せず、百済や高句麗からの渡来系氏族が『日本書紀』に画師として登場します。上淀廃寺の壁画も、渡来系の画師集団が描いた可能性が高いと思われます。
上淀廃寺で出土した丸瓦に「癸未年」の文字が刻まれていました。癸未年は683(天武13)年にあたり、この寺を創建した年を記したのではないかと考えられています。ちょうどこの頃、奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳でも壁画が描かれました。墓と寺という違いはありますが、大陸的な技法による壁画という点で興味深いです。
壁画にも、新旧2種類がありました。上淀廃寺式瓦も、新旧2種類があります。どうやらこの寺は、8世紀の中頃に、大規模な改修をおこない、壁画や仏像もリニューアルしたようです。8世紀中頃といえば、741年、聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発布しています。伯耆国の国分寺は倉吉市に建立されましたが、西伯耆では、上淀廃寺を大規模にリニューアルすることで、国分寺に準じる寺院としたのではないでしょうか。伯耆国分寺や隠岐国分寺・国分尼寺に、上淀廃寺式瓦が使われていることからも、この寺が単なる豪族の氏寺ではなく、公的な役割をおびていた可能性がうかがえます。
このようなユニークな寺を建てたのは、どういう勢力だったのでしょうか?
現地に立ってみると、ちょっと不思議なことに気が付きます。寺は、見晴らしがよい丘の最高所ではなく、丘の南側斜面を切り開いた狭い空間に建っているのです。丘の最高所の平坦部には、6世紀から平安時代までの大小の掘立柱建物跡が多数みつかっています。ここは、上淀廃寺を建てた有力豪族の邸宅か役所のような建物群ではないかと考えられています。その豪族は、この丘の目の前にある向山古墳群を残した勢力の子孫だったかもしれません。
なぜ塔を3つも建てたのか、どのような経緯で壁画を描いたのか、上淀廃寺式という独特な文様の瓦はどのように生まれたのかなど、上淀廃寺には多くの謎が残されています。
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